古着散歩・その3
ブルックスブラザーズの倒産より衝撃的⁉
「VANが先生だった」1978年6月に発売されたPOPEYE32号のタイトルです。アパレル会社『㈱ヴァン・ジャケット』は、この年の4月に会社更生法の適用を申請し、事実上の倒産をしました。そのVANを惜しんだこの特集号は、当時かなり話題になりました。ある意味では、今年7月のアメリカでの「ブルックスブラザーズ」の倒産よりもその頃のファッション小僧には衝撃的でありました。
いま読み返してみると特集のページ数はたった6ページで、それほど多くの紙面を割いているわけではありませんが、穂積和夫氏のイラストと共に「POPEYE」の紙面らしく、ぎっしりと詰め込んだ記事は印象深いものでした。
日本のメンズファッションの礎を最初に創り上げたのは紛れもなく「VAN」でしょう。
VANのはじまり 「男の服飾」の幕開き
VANの創業者は、言わずと知れた、故・石津謙介氏。戦前に神戸港から家族とともに天津に渡り、日本租界にある大川洋行という洋品店で営業として、外国人とのコネクションを広げ、繊維工場をつくったりして活躍しましたが、終戦が訪れると、英語と中国語とロシア語に堪能だった石津氏は日本領事館を通じてアメリカ憲兵隊の通訳として迎えられ、そこで知り合ったアメリカ人中尉との親交でアメリカやIVYなどの文化を知るきっかけとなりました。
その後、故郷の岡山に戻って荒廃した街の姿に、しばらく自分の人生を見つめ直したあとに大阪にあったレナウンでメンズウェアのデザイナーとなりました。レナウンで働いているうちに、大阪の腕の良い縫製職人たちのネットワークを築き上げると、1950年代の初頭にレナウンを辞めて、自分の会社「石津商店」を設立するのでした。
「石津商店」では、レナウン時代の仲間であった高木一雄氏と「ケンタッキー」という独立後、初めて記念碑的なブランドを大阪の裏通りで立ち上げました。それが、いまのアメリカ村でありVANの発祥の地であり、石津氏が手掛けた初めての若者の街になったのでありました。
ビジネスが伸びてくると、もっと印象的なブランドネームが欲しいと考え、戦後の風刺雑誌から名前を拝借して、自分の会社名を(有)VANジャケットに改名しました。後に石津氏はVANの意味について「VANには前衛とか、第一線なんて言う意味があるんですよ。フロントって言う意味。それにオランダやドイツでVANというと男性の名前でしょ。日本でいう太郎さんっていうか。」語っています。
そして、同時期にブランドを象徴するロゴタイプも完成させています。VANのロゴは輸送用の木箱に刷り込まれているステンシルがヒントになっています。黒・赤・黒の配色のVANの3文字は当時の若者にキャッチーで新鮮に映り、のちに3文字ブランドブーム(JUN,ACE,TAC,JAXなど)を巻き起こし、繊維メーカーだった東レはコンピュータを使って、あらゆるローマ字3文字の組み合わせを登録商標したといわれています。
東京に本社を移した前年の1954年からは婦人画報社の「男の服飾」という雑誌に執筆をしています。その第6号では、アイビールックを特集しています。その後、1959年に「MEN’S CLUB」という新たな誌名がつけられていました。こうして、VANは雑誌を牛耳って”アイビー至上主義”ともいえるアイビー教を布教していくのです。
アイビーファッションにはルールがある
ファッションにはルールがあるんだ!これが「VANが先生だった」といわれる所以です。VANはアイビールックの着こなしに規則めいたものとりきめて「すべし」や「べからず」を語尾につける教科書のようなルールを教示していきました。
「ボタンダウンのシャツは第1ボタンはは外すべし!」「ボタンダウンのシャツにネクタイをするときはプレインノットにすべし」「ブレザーを着るときにネクタイを締める場合はネクタイピンをするべからず」といった断言調で10代の少年たちに教示していきました。
また、石津氏は、ネーミングをつくりだす天才で、まずは「アイビー(IVY)」はアイビーと聞けば大体のスタイルが想像がつきますが、もともと「IVY」は蔦の意味で、アメリカ東海岸の名門8大学のアメリカンフットボール・リーグをIVYリーグと称していたのを1956年「男の服飾」6号で8大学の学生の通学スタイルを「アイビールック」といったのがはじまりです。
また、ビジネス用語としてもよく使われる「T.P.O」Time(時間)、Place(場所)、Occasion(機会)も1960年に石津氏が「いつ・どこで・何を着る」と提唱したのがはじまりでした。あと、有名なところではスウェットシャツが「トレーナー(Trainer)」やハリントンジャケットが「スウィング・トップ(Swing・Top)」などの和製英語を作り出しました。
また、石津氏は、ネーミングをつくりだす天才で、まずは「アイビー」はアイビーと聞けば大体のスタイルが想像がつきますが、もともと「IVY」は蔦の意味で、アメリカ東海岸の名門8大学のアメリカンフットボール・リーグをIVYリーグと称していたのを1956年「男の服飾」6号で「アイビールック」といったのがはじまりです。また、ビジネス用語としてもよく使われる「T.P.O」=「Time(時間)、Place(場所)、Occasion(機会)」も1960年に「いつ・どこで・何を着る」と石津氏が提唱したのがはじまりです。あと有名なところでは、スウェットシャツを「トレーナー(Trainer)」ハリントンジャケットを「スウィング・トップ(Swing・Top)」など多くの和製英語を生み出しました。
VANのロゴが入った紙袋を持って銀座の裏通りを彷徨く若者「みゆき族」出てきたり、アイビーよりひとクラスをうえの「トラッド」のブランド「Kent」をつくたり、キャンペーン第1弾の「TAKE IVY」で写真集を出版した。
そのキャンペーンの一環として夥しい数のプレミアム(VANではノベルティのことをこう呼んでいた)を制作しノベルティがほしくてVANファンが増えた。その一つひとつがVANの文化をつくっていきました。
後に、石津氏は「VANのすごさはね、流行をつくたんじゃなく風俗をこしらえたすごさなんだ。たとえばみゆき族ってあったでしょ。VANの袋を持って銀座の街角に立っていれば女の子が寄ってくる、ってやつですよ。あれは若い人の風俗をつくった。」
こうしてVANは1960~70年代初めにかけて、青山を中心に巨大化していくのでした。
(参考文献:デーヴィッド・マークス「AMETORA 日本がアメリカンスタイルを救った物語 DU BOOKS、 VANヂャケット博物館 扶桑社)
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