「Made in U.S.A Catlog」が日本のライフスタイルを永遠に変えてしまった
「The Whole Earth Catalog」がお手本
1970年代のはじめ、アメリカの西海岸サンフランシスコで巻き起こったピッピームーブメント、反体制的な行動に始まり、自然回帰的な思考へとつながりいろいろなコミュニティは発生していきました。そして、その自立したコミュニティづくりに必要な道具をこれでもかと詰め込んで出来上がったガイドブックが「The Whole Earth Catalog」でした。
その雑誌が、ニューヨークのダブルデイ書店の壁一面に覆われているのに目が止まったのが、当時「平凡パンチ」の編集者だった石川次郎とイラストレーターの小林泰彦でした。そして数年後に、この「The Whole Earth Catalog」をモデルに作られたのが読売新聞社から発行された「Made In U.S.A Catalog」でした。
この雑誌により、多くのアメリカ製のブランドが、日本に紹介され、そして多くの日本の若者を虜にして、一大マーケットを形成する事となりました。
これはただ単に、アメリカのジーンズやレインジャケットをというだけではなく”14オンスのデニム”や”60コットン/40ナイロン・クロスのパーカー”といった”スペック”にこだわりを持ち、消費者が知識を得て、(ある意味で商品学として)進化していったのです。
そして1970年代のファッションを変えるだけではなく、その後の日本のあらゆる雑誌のスタイル(大げさに言えば、雑誌だけでなく「ライフ・スタイル」)を永遠に変えてしまうことになるのです。(参考資料:アメトラ・日本がアメリカンスタイルを救った物語 デービッド・マークス著 )
1976年6月25日 新たなる伝説の誕生「POPEYE」創刊
「POPEYE」創刊号は、ノー天気なカリフォルニアン・スタイル 「Made In U.S.A」の踏襲
1976年6月25日に平凡出版(現マガジンハウス)から「POPEYE」という雑誌が発売されました。
余談ですが、この創刊日の翌日に、20世紀の格闘技界で最も”エポックメーキング”な出来事といっても過言ではない「モハメッド・アリ対アントニオ猪木」の”格闘技世界一戦”が行われたのです。”今世紀最大の退屈な試合”と当時は酷評されました(その後の関係者の証言などから再評価)が、ここから異種格闘技戦が拡がっていき、離合集散を繰り返しながら発展し、現在の格闘技界のフォーマットが出来上がりました。(この「モハメッド・アリ対アントニオ猪木」戦についてはいつかまた語りたいと思います)
雑誌「Made in U.S.A」の成功に気をよくしたスタッフが中心になり、平凡出版社から都市生活(シティライフ)をテーマにしたライフスタイル・マガジンとして「POPEYE」という雑誌が産声をあげたのです。
創刊号は「Made In U.S.A」の1975・1976年版を合体(カタログ+ライフスタイル)したようなスタイルを踏襲して、アメリカの西海岸・カリフォルニアの若者文化を中心とした構成になっていました。
表紙には、天才アートデレクターといわれた堀内誠一氏が、イラストレーションでは、当時、最新の技法といわれたエアーブラシを使って、あっという間に”ポパイ”のイラストと題字を描いたそうです。そして、創刊号No.1の下には「Magazine For City Boys」のコピーが誇らしげに入っていました。
創刊号の内容といえば、当時のカリフォルニアで流行っていた”ハング・グライダー”やスケートボード”や”ジョギング”などに50ページを超える誌面を取り、そこから続く”インターナショナル・スニーカー・カタログという頁では、当時、日本に未入荷のスニーカー「NIKE」を取り上げています。70年の初め頃の「NIKE」は米国でようやく浸透してきたブランドでした。
「Made In U.S.A」の取材当時も販売されていて、72年のミュンヘンオリンピックのマラソンで上位7人のうち4人がナイキを履いていて、話題になっており、アメリカ国内でも注目の存在でした。あえて、この日本未入荷のブランドを「Made In U.S.A」には、掲載せずに「ポパイ」の創刊にあわせて、思惑どおりに日本でも話題をさらいました。
これには、前途の編集者、石川氏の「ポパイ」に対する並々ならぬ思いがあったといわれています。この日本未入荷の超プレミアな「NIKE」は早速、超話題となり、海外旅行がようやく一般的になってきた当時の日本で、夏休みに家族で海外に観光にいけるような裕福な友達に頼んで、直接買ってきてもらったりしました。この創刊号で、「不健康(タバコやお酒を嗜むこと)」が一種のステイタスだった日本の若者たちにカリフォルニアの青い空のような明るく、健康的で、ノー天気なライフスタイルを紹介したのでした。
西海岸からニューヨークやヨーロッパに視点が移った第2号
パイロット版の2号の表紙は、その頃、リメイク制作が決まっていた「キング・コング」。ペーター・佐藤氏のエアブラシによるイラストが雰囲気を醸し出しています。雑誌の体裁も創刊号の無線とじから中とじに変わり、頁数も148ページとスリムになりました。
この『第2号』は、前号の「カリフォルニアのスタイル」からグッと方向を変えて、ニューヨーク、パリなどの都市を取材して、大人っぽい雰囲気の構成になっていました。
ファッションの特集では、『ホット・クラシック』と名付けた、ニューヨーカーの1920〜40年代のトラディショナルでノスタルジックなヴィンテージ・スタイルや機能的なサープラス・スタイルなど「クラシックなモノと機能的なモノをミックス」するスタイルを提案しています。
クラシックな2プリーツのパンツにアディダスやナイキのスニーカーを合わせてしまうというところが、この当時の最先端でカッコ良いいスタイルでした。
そんな『ホット・クラシック』スタイルを提案しているお店の紹介では、ニューヨークにある『サンフランシスコ』というお店や『UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE』(こんな時代からユニクロと思いきや)当時、ニューヨークで注目の地区であったソーホーの大きな古着屋さん(80年代ぐらいまでやっていて、実際に行ったことがあります)でサープラスウェア(M−65ジャケットをエンジ色に染色していた)やカラフルなボウリングシャツがあったり、50〜60年代のビンテージが文字通り大きな倉庫に山積みにされていました。
また、パリのお店の紹介では、かの『GLOBE』が、レアル地区の元は魚屋だったところにオープンして、「パリにはじめて実用着の楽しさを教えた」として、若き日のピエール・フルニエ氏が写っています。
「POP*EYE」や「POPEYE FORUM」という”読者からの手紙”を元につくるコラムのコーナーができて、「POPEYE」の原型ができあがっていった。
個人的には、この第2号が、感性が高く、敏感に世界の動きを捉えていておもしろかったと思います。
「いよいよ本格軌道へ」・・・準備は整った『第3号』
『第3号』はなんと言っても、「POPEYE Fashion Labo.」と銘打って仕掛けた「WILD CHIC 今、流行中のアメリカのアウトドア・ウェアをシックに着こなすという勇気ある実験」を5ページにわたって特集しています。ラルフ・ローレンのツィードのスーツにウールリッチのマウンテンパーカーを組み合わせて「本物同士は実に調和するものである」と主張していました。
この記事をまとめたのが、「IN and OUT」というブティックの店員していた、まだ無名の北村勝彦氏であった。この写真のマウンテンパーカーの商品紹介欄の取り扱い店として、原宿にできたばかりの若者向け衣料品店の「ビームス」が掲載されていました。
「Sports」のページでは、また新たなまだ見ぬスニーカー「New Balance」の「320」というモデルが大きくカラー写真で紹介されています。
「「米ランナーズ・ワールド」誌の1977年度のトレーニング・シューズ・コンテストの第1位に登場」とあります。こんなランナー専門の誌自体があることに驚かされ、そしてこんなに商品の選択肢があることに米国のスニーカー市場の奥深さを知ることになりました。
「People」というページには、若き日のジャンニ・ヴェルサーチ氏が来日したと紹介されています。数年後、「ミラノの3G(アルマーニ、フェレ、ベルサーチ)」と呼ばれ、巨匠と呼ばれる前の姿(写真には、LACOSTEのポロシャツにジーンズという出立ち:これにも後日談があり、当時の日本では、LACOSTEのポロシャツは完全におじさんのゴルフウェアというイメージに成り下がっていて、若者は見向きもしなかったのですが、この来日したベルサーチのスタイルを見たスタッフがPOPEYEの第5号でLACOSTEを取り上げ、再評価されて、今のポロシャツの代名詞を不動のものとしました)を見ることができました。
雑誌の形態も、すこしコンパクトな変形のA4サイズになり、いよいよ定期発行の準備が整い、翌年の3月25日から発売となりました。『第2号』『第3号』は、部数では『創刊号』に比べてあまり売れなかったそうですが、当時の若者のスタイルを一変させてしまうパワーを持って、船出したことは間違いありせんでした。
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